新島八重とは
新島八重(ニイジマヤエ)は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物です。
旧姓は山本。一部の手紙などでは【八重子】と署名してあることから、史料によっては「新島八重子」と書かれる場合もあります。
旧姓は山本。一部の手紙などでは【八重子】と署名してあることから、史料によっては「新島八重子」と書かれる場合もあります。
明治4年、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛し、翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となりました。
この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになりました。
この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになりました。
兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年には女紅場を退職して準備を始め、
翌明治9年1月3日に結婚。
女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えました。
欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重はお似合いの夫婦だったそうです。
翌明治9年1月3日に結婚。
女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えました。
欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重はお似合いの夫婦だったそうです。
明治23年、襄は病気のため急逝。
2人の間に子供はできず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったので、養子を迎えましたが、この養子とは疎遠だったそうです。
2人の間に子供はできず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったので、養子を迎えましたが、この養子とは疎遠だったそうです。
さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったといいます。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得しました。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得しました。
茶名【新島宗竹】を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献しました。
日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されました。
日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されました。
その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。
葬儀は「同志社の母」葬として4000人もの参列者がありました。
葬儀は「同志社の母」葬として4000人もの参列者がありました。